YUKI さんが1992年2月から2001年3月まで8年間ほど所属してヴォーカルを担当していたバンド JUDY AND MARY について、解散した理由はみんな何となく分かっていても、今でも再結成をしない理由については諸説あって真相はどうしてなのか?と当サイトの編集部へ読者の方たちから質問を頂きました。
そこで、ジュディアンドマリーというバンドが国民的な人気を得ながらも惜しまれ
ながら解散に至った理由と、
さらに解散から15年以上経った今でも再結成が望まれているのにどうして実現して
いないのか?の内々での事情を整理して、この記事では記録しておきます。
伝説のバンド JUDY AND MARY(JAM)が解散するしかなくなった3つの理由
恩田快人ではなく TAKUYA 浅沼拓也が中心メンバーになっていったから
ジュディアンドマリーが解散になってしまった理由としてはこれが最も大きいです。
元々、JUDY AND MARY は JACKS’N’ JOKER(ジャクスンジョーカー)という
ヘヴィメタルバンドでベースをしていた恩田快人(おんだよしひと)さん(1963年
12月13日(金)生まれで、バンドでの名前は RADY さん)の
ソロプロジェクトとしてインディーズシーンで始まったバンドでした。1992年2月に
ヴォーカルの YUKI(磯谷有希 いそやゆき)さん(1972年2月17日(木)生まれ)
と恩田快人さん、藤本泰司(ふじもとたいじ)さん(ギターで1963年3月4日(月)
生まれ)の3人が主なメンバーとなって結成されました。
ドラムの五十嵐公太(いがらしこうた)さん(1963年1月17日(木)生まれ)は、
その時はまだサポートのメンバーで、1992年11月に正式に加入しています。
YUKI さんと恩田快人さんの運命的な出会いはどんな形だったのか?については
下記の記事で詳しく説明されています。
バンドのコンセプトは以前から恩田快人さんがソロ用にあたためていたイメージの
『 女の子がヴォーカルで、ちょっとパンクっぽいロックで、ポップな切ない系の
曲をアッパーに演るバンド 』
という路線でした。インディーズで1992年4月に「BE AMBITIOUS」というファースト
アルバムを発表して、その後にライブを何本か演って、
その後は一旦そのまま解散みたいな感じになっていました。でもその状況で途中から
恩田快人さんのこのバンドへの意欲が熱く燃えたぎってきてしまい、
なんと本体のバンドだった JACKS’N’ JOKER を脱退してジュディマリのデモテープ
やライブビデオなどを色々な芸能事務所とレコード会社に送って
頑張って売り込みをして BLUE TEARS という曲がキッカケとなって評価されてソニー
の旧 EPIC SONY という音楽レーベルからメジャーデビューが決まりました。
この頃、既にプロのミュージシャンだった恩田快人さんが「信じられない…」と
驚いたくらいに早く契約関係のことが決まってデビューにこぎ着けています。
この時、恩田快人さんによると、当時の持ち曲の中で「BLUE TEARS」があったから
ソニーが契約してくれて、もし無かったらデビューできなかったそうです。
「BLUE TEARS」という曲はメジャーデビューアルバムである「J・A・M 」の中にも
入っていますが、バンドが世に出るためにキーポイントとなった重要な曲でした。
【JUDY AND MARY BLUE TEARS Powered by seikobayan】
そして YUKI さんによると、恩田快人さんはまだジャクスンジョーカーにいた時に、
夜も眠れなくなるくらいに磯谷有希さんのヴォーカルイメージで
ジュディアンドマリー用の曲が頭の中で猛烈に沢山浮かんできて、それで思い切って
最初はソロプロジェクトだった JAM に賭けてみようと決めた流れがありました。
ホントに人生はどこでどうなるか?分からないものですね…。
それから1993年9月に「POWER OF LOVE」でメジャーデビューしています。
デビューの準備の時に藤本泰司さんは仕事の都合で参加できなくて脱退して、
その代わりにオーディションで選ばれて TAKUYA さん(浅沼拓也 あさぬまたくや
1971年9月9日(木)生まれ)が1993年2月に新たにギターとして加入しました。
「POWER OF LOVE」は磯谷有希さんが函館にいた時に切ない遠距離恋愛をした経験
から生まれていますが、その時のエピソードは下記 ↓ の記事で語られています。
浅沼拓也さんにはその当時から大物的なオーラと自信過剰的な態度があってw
『 実はあの時は僕の方が他の皆さんのことをオーディションしてたんですよ♪ 』
なんて後に笑いながら語っています。
【JUDY AND MARY POWER OF LOVE Powered by seikobayan】
この後、JUDY AND MARY には1994年12月に発売したアルバム「ORANGE SUNSHINE」
から、90年代の伝説の音楽プロデューサー佐久間正英(さくままさひで)さん
(1952年2月29日(金)生まれで2014年1月16日(木)に逝去)が参加しています。
佐久間正英さんのことをよく知らない読者の皆さんのために、
佐久間正英さんが生前にプロデュースされた主なアーティストを紹介しておきます。
こんな ↓ 感じで、本当にそうそうたるすごいメンツでした…。
- BOØWY
- 氷室京介
- GLAY(グレイ)
- L’Arc~en~Ciel(ラルクアンシエル)
- JUDY AND MARY(ジュディアンドマリー)
- 黒夢
- PIERROT(ピエロ)
- 雅 -MIYAVI-(ミヤヴィ)
- ZI:KILL(ジキル)
- BY-SEXUAL(バイセクシャル)
- Λucifer(リュシフェル)
- JUN SKY WALKER(S)(ジュンスカイウォーカーズ)
- THE BLUE HEARTS(ザブルーハーツ)
- TOKIO(トキオ)
- THE ELEPHANT KASHIMASHI(エレファントカシマシ)
- 筋肉少女帯(筋少、King-Show )
- HY(エイチワイ)
- 175R(イナゴライダー)
- くるり
- CURIO(キュリオ)
- エレキブラン
- THE STREET SLIDERS(ザストリートスライダーズ)
- RAZZ MA TAZZ(ラズマタズ)
- N’ 夙川 BOYS(ンしゅくがわボーイズ)
- Hysteric Blue(ヒステリックブルー)
- 渡辺美里
TAKUYA さんはギターの演奏能力が元々高かったのですが、作曲のスキルも
伸びていき、やがて佐久間正英さんがそのスペックを認めてくれるように
なって、ジュディアンドマリーのために名曲を多く生み出していくことになります。
後に浅沼拓也さんは佐久間正英さんの秘蔵っ子的な愛弟子にまでなっています。
TAKUYA さんは当時のことをふり返って
『 90年代の J-POP シーンでは、成功した海外のアーティストのスタイルを持ち
込んでマネをするのが主流だったけど、
でも僕はあくまで自分の中から出てくるアイディアを使って音楽を演りたくて、
ボクのユニークで奇抜な発想を、
世間のニーズと上手くすり合せてくれて JUDY AND MARY の音をビジネスとして
売れるようにしてくれたのが佐久間正英さんだったんです 』
とインタビューで教えてくれました。
お2人の間には当時、本当に強い師弟関係の絆があったことが偲ばれます…。
そうすると、1995年12月にドロップしたアルバム「MIRACLE DIVING」の中では
TAKUYA さんの曲が多く収録されるようになっていって、
更に、1997年3月にリリースしたアルバム「THE POWER SOURCE」ではついにリーダー
である恩田快人さんよりも TAKUYA さんの曲が多くなりました。
アルバムを生み出しながらツアーを重ねていってライブの動員数やCD、グッズなど
の売り上げが増えていって JAM は商業的に莫大な成功を収めていきました。
しかし、その頃からジュディアンドマリーの中では修復できない程の不協和音が
芽生えて、そして大きくなっていきました。
恩田快人さんにとっては、最初はソロプロジェクトとして軽めな気持ちでジャムを
インディーズで始めて、そんなに長く演るつもりはなくて、音源の制作や
ライブなどの音楽活動の費用を全て私的に負担して、その頃は YUKI さんや藤本泰司
さん、五十嵐公太さんなどにギャラを支払ってバンドを運営していました。
つまり、恩ちゃんにとってはもう音のコンセプトからコストまで何から何まで自分で
プロデュースをして始めた、自らの分身のように愛していたバンドだったのです。
でも、TAKUYA さんを加えてメジャーデビューをして、佐久間正英さんという強力な
プロデューサーの協力もあってバンドが成長して巨大化していく中で
恩田快人さんや五十嵐公太さんなどがアドバイスをしながら育ててあげてきた浅沼
拓也さんが皮肉にもバンドの中で主導権を握る形になっていきました。
そして徐々に TAKUYA さんの作詞や作曲が増えていくことで、恩田快人さんが最初
に描いてたバンドの方向性(音楽性)とは大きくズレてもいきました。
【JUDY AND MARY 小さな頃から 作詞 YUKI 作曲 恩田快人
Powered by 梅星一家】
このような状況になってしまっていたので、恩田快人さんのバンド活動へのモチベー
ションはダダ下がっていき、活動休止期間(1999年1月~2000年1月)の
前にも実はもうけっこうネガティブな感じになっていました。当時の恩田快人さんの
心情を想像すると、自分と YUKI さんの夢を一緒に叶えるために始めた
ソロプロジェクトのバンドがメジャーシーンで成功することは確かに喜ぶべきこと
でしたが、その過程で8コも年下の野心家な TAKUYA さんにバンドの
イニシアチブを奪われることになってしまい、それと同時にバンドの音楽性も浅沼
拓也さんのカラーがとても強くなってきて自身の思うような活動が
できなくなっていったワケですから、客観的には恩田快人さんが JUDY AND MARY
での活動に限界を感じ始めていたことは理由として納得できるモノでした。
恩田快人さんは決してワンマンで独裁政治的なやり方をしてきた訳ではないですが、
それでも、こういう状態になっていたらちょっと続けるのはきついですよね。
一般に『 バンドは続けること自体が難しい 』なんて言われますが、ジュディマリは
音楽シーンでの成功とひきかえに、内部で消せない亀裂が生じてきていました。
そして活動休止期間から復活して2000年2月に復帰第一弾シングルである
「Brand New Wave Upper Ground」をリリースして、その後に初めて
恩田快人さんが脱退することを所属事務所の関係者の方に申し出ています。この時、
チーフマネージャーの堀江正樹さんは、恩田快人さんがつくったバンドなので
無理に続けようとしなくてもイイよと理解を示してくれました。しかし、YUKI さん
はそんなに急に脱退されて、恩人である恩田快人さんが抜けた状態で代わりの
ギタリストをすぐに見つけるとかはあり得なかったので、五十嵐公太さんと恩田快人
さんとで3人で話し合いを何度もしました。
磯谷有希さんはとにかく恩ちゃんの気持ちを知りたくて、そして、できるなら引き
止めたい気持ちもありましたが、恩田快人さんの意思は固かったのです。
因みにその時、TAKUYA さんは
『(メンバーは)みんな大人なんだし、わざわざそんなことまでしなくてもイイん
じゃないの~?』
って感じで普通に静観していました。
浅沼拓也さんは、基本的には自身が作曲をして YUKI さんが歌えば、それで JAM
になるので、もし3人になっても
ベースはサポートメンバーなどに手伝ってもらってジャムを普通に続けていけると
考えていました。
【JUDY AND MARY Brand New Wave Upper Ground Powered by 梅星一家】
一方、恩田快人さんはこの時、自分は続けていけないので脱退するけど、残りの3人
でジャムは続けていってほしいと考えていました。
もうこの時にはジュディマリがすごく大きくなってしまっていたので、自分が抜ける
から解散にするとか、そういう話にはならないと恩田快人さんは思っていました。
でも磯谷有希さんはこのバンドで誰か1人でも抜けるのなら、もう続けてはいけない
と考えました。バンドはどうしてもチームプレイなので、
JUDY AND MARY としての活動を続けていくことに限界を感じ始めて、それから半年
くらいの時間をかけてどうすべきか?どうするのが一番良いのか?を
悩んで考えていました。一時はジュディアンドマリーを解散させてしまって、代わり
のベーシストを探して TAKUYA さんや五十嵐公太さんなどと一緒に
別のバンドを立ち上げてやっていく選択肢も考えました。で、半年後の2000年8月頃
にはもう4人でステージに立つのが難しいくらいに関係が悪化してました。
どうすればイイのか?答えが出ないままに時間が過ぎていって YUKI さんは頭の中が
ゴチャゴチャになってしまって苦しみ、悩んでいました。
そして徐々にその状態が嫌になってきて、スッパリとした終わりを求め始めます。
『 私が終わるって言うことで終われるのなら、スパっとここで JAM を終えよう 』
という感じで、解散になった様々な要因の中の一つとして恩ちゃんの脱退があって、
磯谷有希さんは「誰か1人がいなくなるなら、もうバンドの存続はない」と感じて
『 じゃあ、解散しようよ 』と最後には言いました。磯谷有希さんにとっては当時
の4人での JUDY AND MARY しかイメージすることができませんでした。
残された3人でジュディアンドマリーを演ってるところなんてイメージはできずに、
でもカッコいい、潔い解散ならその時にイメージすることができました。
何かを決心すると、スッキリとそこで物事を割り切れる性格だった YUKI さんは、
グチャグチャと悩んでいたそれまでの状態はイヤだったので、
ハッキリとした結論を出したくて、他の3人にとっても、自身にとってもここは解散
を選んだ方が良いと考えました。
磯谷有希さんはその時には既に
『 JUDY AND MARY が(解散をして)無くなっても大丈夫。(あたしはどんどん
変化をして成長していきたいし、一人で演っていくつもりだから…)』
とふっ切れていました。
それで、2000年7月のある日の夜に YUKI さんは TAKUYA さんに電話をして、JAM
を解散しようと切り出しています。
【JUDY AND MARY ラブリーベイベー Powered by videodejam】
その際に同時に、最後にアルバムをもう1枚だけ作って、みんなで一緒に全国ツアー
を回ってから終わろうと提案しました。
五十嵐公太さんはこの時、特に強く意思表示などはしていなくて、
『 YUKI がそう言うのなら、それで仕方ないだろう… 』
みたいに同意して、やはり誰か1人が抜けるのなら(それがリーダーの恩田快人さん
では仮になかったとしても)このバンドは解散するのがイイと言いました。
YUKI さんは一度決意をすると、後はサッパリとして気持ちを切りかえて行動できる
キャラなので、TAKUYA さんが
『 解散したら(著作権などの権利関係の問題があるから)もう JUDY AND MARY の
歌を YUKI は好きに歌えなくなるんだよ? 』
と説得をしようとしましたが、その判断を変えませんでした。磯谷有希さんは変化や
成長などに対してどん欲で、それらを肯定することの先に
ジュディアンドマリーの解散があって、今の自分たちには必要と考えるようになり、
『 じゃあ(ジャムの曲を)2度と歌えなくなってもイイ。後悔なんて全く無いっ! 』
と最終的に気持ちの整理をつけました。
【補足】
これは余談ですが、解散をするかどうか?緊迫して相談してた時に、五十嵐公太さん
にとってはメンバーの前ではとても言えない個人的な本音が実はありました。
五十嵐公太さんはその時、ホントはどんなことを考えてたのか?は下記 ↓ の記事で
コッソリと明かされています。
YUKI さんの音楽的な才能が一気にモンスターのように開花して、恩田快人さんは
今までにバンドのために作ってきた曲たちがだんだんその時の
磯谷有希さんにイメージ的に合わなくなってきたと感じてもいて、そこへ TAKUYA
さんの曲がバンドの中で中心のテーマのようになってきていて、
音楽性の面でも色々と限界を感じるようになっていました。それで、最終的には
『 もう俺がいなくても JUDY AND MARY はやっていけるでしょ? 』
みたいに見切りをつけることになりました。ジュディマリの殆どの曲を浅沼拓也さん
が作るようになり、恩田快人さんの心が『 もう俺は必要ないでしょ? 』と
バンドから離れていった中で恩田快人さんと TAKUYA さん、五十嵐公太さんの3人が
創作活動でお互いを尊重しながら分かり合おうとする姿勢が薄れ始めていました。
その結果、メンバーがバラバラに個人プレイに走るようになっていき、バンドで大切
なチームプレイの意識が気持ちの面で崩れていきました。
そんな3人の様子をそばで見ていて、YUKI さんも色々と限界を感じるようになって
いったのは納得できる流れです。
それで、難産となった 5th アルバム「POP LIFE」を製作していた時点で、音楽活動
を一緒にしていくプロセスにもう明らかに無理が生じていることを
メンバーのみんなが認識するようになっていました。早まってすぐに解散すること
を避けて、ちょっと時間を置いて気持ちを休めてみる目的もあって
その後に1年間の活動休止期間をとってみることになりましたが、実際にはその期間
の後になってもバンド内の状況は何も変わってはいませんでした。
【JUDY AND MARY イロトリドリ ノ セカイ Powered by videodejam】
因みに、この時の1年間について、TAKUYA さんは
『 バンドの中が色々とグチャグチャになり始めていた時で、コミュニケーションを
積極的にすることで皆の気持ちを一つにすることも全然できていなかった。
だからみんな、あの充電期間中には、近い未来にジュディマリが終わりをむかえる
ことについてのココロの準備をしていたと思うんです 』
のように過去のインタビューで語っています。
そして、ぶっちゃけて言うと、ジュディアンドマリーには最初から才能があって野心
がとても強かった磯谷有希さんがいました。
『 絶対に他の人には誰にも負けない… あたしが最後に圧倒的に勝つ!! 』
みたいに天下を獲ろうとするくらいのヤル気とポテンシャルがあって、そこにソニー
が大々的にオーディションをして TAKUYA さんが入ってきました。
『 お… 俺と同じくらいにギラギラしてて、ヤル気がある奴がいるな 』
と YUKI さんに出会った最初から感じていたそうです。で、ヤル気とパワーに溢れて
いた浅沼拓也さんと磯谷有希さんがいて、実はバンドを解散した時にも2人的には
『 まだまだやれる、ジュディマリでいけるっ!! 』
ってくらいのテンションだったのですが、他の2人(恩田快人さんと五十嵐公太さん)
はもうついてこれないくらいにすぐに疲れてしまっていました。
だから TAKUYA さんからすると、よく自分は JAM に後から入ってバンドを乗っ取った
とか業界の人からは言われるけど、
メンバーのヤル気や能力とかパワーバランスみたいな面で YUKI さんと浅沼拓也さん
がバンドの中では突出していました。それで、サウンドのプロデュースなどを
していて TAKUYA さんが中心メンバーみたいになって目立っていったのは仕方がない
状況だったと、当時をふり返ってインタビューで語っています。
つまりバンドの活動に対しての、気持ち的な部分での温度差のようなモノがどうしても
メンバーの4人の間にあったということです。
あの時の全力疾走しているスピード感でのジャムの活動に、磯谷有希さんと TAKUYA
さんは乗り気でガンガンについていってたけど、
でもその一方で、恩田快人さんと五十嵐公太さんにとってはそれがきついくらいの状態
に、解散を決めた頃にはなってしまっていたという訳です。
だから、浅沼拓也さんが敵対をしていて恩ちゃんのポジションを強奪したとか、バンド
の内部ではそういうことではありませんでした。
【JUDY AND MARY ひとつだけ Powered by aotakka】
ジュディマリが解散をしてしばらく経ってから浅沼拓也さんは
『 あのバンドは最初に YUKI という才能に溢れていて選ばれた子がいて、メジャーで
絶対に結果を出そうと誓い合ったメンバーがその周りにいて、
その音を外部から支援して(商業的に売れる)形にしてくれた佐久間さんがいたから
成り立っていた。YUKI は言葉の選び方のセンスとか、作詞の能力も
すごくて、JAM のレコーディングをしていて何度か奇跡を感じる瞬間があった。生き
ている間に YUKI と同じくらいのヴォーカリストにまた出会えるとは
実はもう思ってなくて、でもまたジュディアンドマリーの時のような感動をもう一度
味わいたくて、僕は今でもこうして音楽を続けているのかもしれないです… 』
のように、昔のことを思い出しながら語ってくれました。
それから、ジャムのファンの皆さんの誤解を解いておくために書きますが、
このアルバムを創っていた時に TAKUYA さんが
『 悪いけど今はもう俺、他のメンバーと同じだけの収入ではやってられないよ!! 』
みたいに言って、それが恩田快人さんの耳に入って、そのすぐ後に恩田快人さん
が脱退を申し出て、浅沼拓也さんがキッカケをつくった悪者みたいに
解散については言われていますが、それは誤解です。この時に TAKUYA さんは、
アルバムのために多くの曲を手がけていてすごく頑張っていました。
周りの近しい人から、こんな風に証言があったくらいに…。
それで作業の負担がすごく大きくなっていたから、途中でちょっと苦しくて愚痴
ってみたという感じで、別に他のメンバーを批判したりとかの
意思はありませんでした。そしてホントにギャラをもっとほしいとか強く求めて
いたのでもなくて、その点はどうか分かってあげてほしいです。
TAKUYA さんは最後まで解散をしないで済むようにできないか?と悩んでいたのも
あります。
お金についての TAKUYA さんの発言は、そういうことを周囲に言っていたと、恩田
快人さんが後にインタビューで話していたことですが、
浅沼拓也さんが思い上がって調子にのっていたとかのとらえ方も誤解ですので、
ネット上での安易な情報には注意をされてほしいです。
勿論、当時の恩田快人さんにとってはその言葉をけっこうガチで受け取ってキレて、
笑えない展開だったから脱退を表明したという流れは想像できますけどね。
あと、TAKUYA さんが『 もっと自分の可能性を試したいんだ!! 』と言い始めて
最初に解散を言い出したという説もありましたが、それはただのゴシップです。
上記のように、浅沼拓也さんは3人が解散に傾いていた時に『 え?!どうして? 』と
ビックリして、バンドを続ける気満々で YUKI さんを説得していましたので。
【JUDY AND MARY mottö Powered by 32hyakkei】
それから、解散が決定的になって、YUKI さんが提案したように JUDY AND MARY
のメンバーは最後の 6th アルバムの「WARP」を生むために
レコーディングに入っています。不思議なモノで、解散を決めた後、メンバー間の
雰囲気は昔のように急に良くなって、4人のテンションも上がって
元気になって、とても明るくて楽しく解散に向けて一緒に作業を進めていく状況に
なれていました。きっとストレスやしがらみなどから解放されたからですね。
この時、YUKI さんは
『 なんか世間の他のバンドみたいに解散でしんみりと最後を終えるのではなくて、
ドッカンドカンって派手に演って終わろう!! 』
みたいに考えて、気持ちがとても前向きになれてました。
それでは、JUDY AND MARY が解散になった2つ目の理由へと続きます。
アーティストは3組まで選べます。
やっぱり、JAMの解散は避けられないことだったんですね… 😭
解散の理由って恩田さんやタクヤだけが悪いみたいにファンからは言われてて、ホントのところはどうなんだろう?!ってずっと疑問でした…🙄
解散の理由って当時、FCの会報や雑誌なんかにもぼかして書いてあって、他のサイトだと雑に書いてあるだけでなんだかよく分かりませんでした😰
でも、あの当時、恩ちゃんとTAKUYAの間でどんなやりとりがあったのか?って、結局は2人にしか分からない気もするね。。💆🏻
ホントにバンドって中で色々とあって(続けていくのが)大変なんですねぇ。。😖
タクヤが成長してきて(バンドの中での主従関係が)追い抜かれそうになった時の恩ちゃんの気持ちは分かる気がするな… こうゆうのって一般の会社とかでもよくある話だよね🙄
インディーズの頃の公太さんが今とルックス違いすぎてちょっとこわい.. ((((;´・ω・`)))
恩ちゃん的には、バンドを解散させたかったのかもね
でもメンバーの他に事務所とかレコード会社などの関係者の生活もあったから、自分が抜けるって、脱退にしたんだろうね
恩ちゃんは優しい人だからね…😢
なんつーか、佐久間さんにタクヤが気に入られて、それで発言権や態度がでかくなっていった(ように感じられた)ことが恩ちゃん的に無理だったんだろうな結局は。。😖
で、TAKUYA的には別にそんなに生意気な振る舞いとかは全然してないって言ってたしね
あれだけ大きなバンドだったから、単純に恩ちゃんとタクヤが…って理由だけぢゃないだろうって思ってました
記事を見てみて、やっぱりねって感じでした
JAMの解散のFCカードが家に届いた時、生きているのが嫌になって号泣したのを今でも覚えています..😭
あれから時が経ったけど、思い出すと今でも胸が痛む感じです😔
解散や再結成って、ネット上で時々むし返されて話題になるけど、それだけJAMは今でも人気があるってことだよね..😌
ジャムはあたしの青春そのものでした…
できるなら、また4人一緒の姿を見せてほしいですホントに😣
WARP TOUR FINAL のライブを見てると今でも涙が出てくるんだよね。。
恩ちゃんからしたら、最初のコンセプトから(タクヤによって)どんどんズレていくバンドの音楽性を受け入れられなかったんだろうな。。
こうして見ると、ユキも含めて4人ともがリーダーキャラのバンドだった感じするよね..
つまり、うまくいかないとゆうか、いきづらいバンドだったわけねw
恩田さんが最初に勝手に抜けてバンドをつぶしたとか、悪く言わないであげてほしいです.. JAMは、色々と解散以外にはどうしようもないところまできてたんだと思うから😥
恩ちゃんとしてはリーダーとして、そして(タクヤに対して)同じ男としてのプライドとかがあったからだろうから、気持ちは分かる気がするね..
ユキは解散を決意した後、わりとサバサバとしてたけど、男3人は(バンドのことを)ずっと引きずってるような感じがあったよねw
ユキに近しい人から聞いたんだけど、やっぱり再結成してやり直すってことはYUKIの性格的にちょっとアレみたいで、ガンとして首を縦にふらないって以前に聞いたことがありますね..
インディーズの頃の(攻撃的で)パンキッシュな感じもいいね!
なんとか続けられなかったのかな。。って今でも素朴に思えるんだよね
残念だね…😢
JAMの歴史をふり返っていると、、バンドを続けることの難しさを感じますね..😣
TAIJIさんっていつまでも歳とらない人だよねw
かわいい…😊
タクヤを最初に選んだのは確か恩ちゃんだったけど、バンドを一緒に演っていく中でやっぱり色々とあったんですね..😎
JAMが解散した時、TAKUYAは『俺がコンポーズしてYUKIが歌えば、それがジュディマリになるから(メンバーが変わっても)大丈夫』みたいに言ってたんでしょ?
そういう態度がバンドを演りながら出ていたら、見えていたら、やっぱり恩ちゃんとしては辞めたくなったと思うな..🙄仕方ないよね
でも恩ちゃんとTAKUYAは、嫌い合ってたとかではないと思うんだよね..
タクヤはJAMの時におんちゃんのことを尊敬していて、見習っていたって何かのインタビューで言ってたしね (。・・。)
この記事を書いた人は昔、JAMのスタッフだった人なんですか?!
なんか詳しすぎて怖い気がしました..((((;゚Д゚)))))))
思いました!!詳しすぎますよね(;・∀・)
同意です
まるでバンドの中の事情を詳しく知ってる人が書いたみたいですよね.. 🤔
恩ちゃんはタクヤを嫌ってはいなかっただろうけど、JAMは自分のバンドだってプライドもあったから、あのまま一緒には演っていけないって感じになっちゃったんだろうね🙄
もし自分がバンドを演ってて恩ちゃんの立場だったら?って想像すると、、やっぱりあのタイミングで脱退してたと思うね🙄
恩ちゃんからしたら、プライドを傷つけられたりして一時はナーバスになってたんだろうねきっと..🤔
4人で一緒にイベントに出るのが無理になってたとか、そうゆう時期もあったもんね実は。。
やっぱりTAKUYAの曲は最高だーねヽ(*´з`*)ノ♫
「小さな頃から」が名曲過ぎてつらい..😭😭😭
これこそがJAMの王道バラードだと思うの
ジュディマリは恩ちゃん抜きでは考えられないしそれならジュディマリを解散する、っていうYUKIの決断には、ジュディマリに対する思い入れの強さと、何より彼女自身の人間としての強さを感じる。解散は悲しいけど、それがジュディマリ4人の決断だから受け入れるしかないのだなと改めて思った。これからも大好きですジュディマリ。
そう言えばユキちゃん、かたくなにJAMの曲をセルフカバーとかで歌おうとはしないね今でも。なんでだろ (?_?)
大物級のバンドの中で、JAMだけが唯一って感じで大震災の復興支援の時も再結集とかなんもしてないよね..
なんで???って色々と理由を勘ぐりたくなるよね.. (*・ω・)
なんかよくよく内情を聞いてみると、JAMの場合には学生時代からの仲間達が一緒に結成したバンドとかじゃないから、仕事としてメンバーをソニーが集めて始めたバンドだから、途中で公太さんとかがやめたくなったりとか、色々とあったみたいなんだよね。。🙄
YUKIちゃんもいつかのインタビューで『解散には様々な要因があって、、』って話してたよね。こちらのサイトのとっても詳しい記事を読んでみて、長い間のファンとしての疑問がようやく解けた気がしました。
JAM愛にあふれた記事を書いて下さってありがとうございました..😭
1人で脱退をするしかないって決心した時の恩ちゃんの気持ち、今なら分かる気がするなぁ..
タクヤも、もうちょっと言葉に気をつけてくれてればなぁ.. って思うよ (。-_-。)
解散するしかってなった時、きっとYUKIちゃんもTAKUYAさんも辛かったと思うんだよね..(涙
今年の夏、ツアーファイナルで函館公演のライブが函館アリーナであるから、YUKIちゃんは恩ちゃんと函館で初めて出会った頃のことが懐かしく思えて思わず『 JAMまた演るわ!! 』ってならないだろうか?🙄(あまり可能性は無い..)
でもあんまり再結成してとか何度もみんなが言ってると、メンバーにその声が届くかもだけど、うざがられるかもねw
JAMの解散については、この記事のお陰で謎がもう完全に解けた気がします
ありがとうございました (ρ_;)
あの解散広告をみた日の衝撃…
今でも鮮明に覚えています
号泣して、、悲しくてたまらなかったです😭
先日のANNの中でも最初に『あたしジュディアンドマリーってバンドに以前いて…』とか明るく自己紹介してたから、ユキちゃんの中でJAMは決して黒歴史ってわけぢゃないんだなとは思えたんだけど.. でも、復活するかどうかはまた全然別の話なんでしょうね😢
解散の理由で一番大きかったのはやっぱり「恩ちゃん vs TAKUYA」の部分なんだろうね..
同じリーダータイプの人たちだから、しょうがないし、(一緒にやるのがきつくなっていったのも)分かる気がするね🙄
ユキちゃんが好きな人って、大抵ジュディアンドマリーのことを知ってて、ある程度は好きな人だと思うんですよね
今もYUKIちゃんは『私はジュディマリだった…』とか自己紹介するもんね
だから、機会があったらまたステージを見せてくれるとか、あり得ると個人的には思っています(´▽`)
タクヤさんは先日、ベイビーメタルが前座をしてるレッチリのライブをアメリカで見てて『 JUDY AND MARY をまたやりたいな~』って言ってましたよ!!😍🎸
JAMの解散には裏にこんなに悲しい理由があったんですね..
なんかとても切ないです ( / _ ; )
ユキちゃんも、最初は解散をなんとか阻止しようとして話し合いを何度もしてたのか,,
もうどうにもできないところまでJAMは逝ってしまってたんだね..(涙
ポップライフのアルバムのジャケットがその時のJAMの内情を端的に描写してるようで、見ていて痛々しいね..😢
恩ちゃんは優しくて良い人だから、自分が原因でJAMが解散に及んだこととか、申し訳なくて.. 気にしてそうだよね (。・・。)
解散の時のインタビューで、YUKIちゃんの強がってたけど、でも悲しそうな、悔しそうな表情を今でも覚えてるんだよね.. (´・ω・`)
バンドの内情って、本当に夫婦みたいなもんで、外からだと、どうなっているのか?全然分からないものなんですね..
素晴らしい曲を生んでいて、表面的には仲が良さそうに見えていても、ある日突然に解散広告を新聞に出したり、、普通に(JAM以外でも)あるもんね😭
JAMの歴史を正確に詳しく綴ってくれているのは本当にこのサイトだけです..
あたしにとってジャムは青春そのものでした。。
感謝しきれない気持ちです
ありがとうございます😭
メンバーが解散って結論を出した時に、エピックの人らは全く引き止めなかったってのも、なんだか悲しいよね。。
ドームツアーができるくらいに巨大化していたバンドだから、あんな結末はやっぱり惜しまれるよ😭
今はYUKIちゃんがソロで歌っているし、それを聴けばいいし、別に復活してほしいとは思わない。
そばかす、で初めてJUDY&MARYを知ってはまったけど、解散したの?え?って、大ボケかましてた。あの頃、宇多田ヒカルが目立ち過ぎてたから。
確かにポテンシャルはユキは高いけど、それだけじゃお腹が空くわ。
コメントありがとうございます
90年代に隆盛を極めていた小室ファミリーが消えたのも、結局は
宇多田さんの登場がキッカケでしたね..
JAM の場合には、才能の面では独自の路線でそれなりにはやって
いけたレベルにあったと考えられます(GLAY のように)
しかし、最初から商業バンドとしてメンバーを集めて始められた
プロジェクト(ベテラン2名と新人2名)であり、
プロの集団であったために音のレベルは高かったのですが、逆に
例えば学生時代からの仲間で始めたとかではなくて、
人間的な部分でのつながりがどうしても希薄であったチームで、
それが理由で対人関係的に無理が重なっていって
最後には、内部分裂を避けられない悲しい結果になった印象です
プロデューサーだった佐久間さんは生前、
『(バンドの中がこんな状態だったら)もう(ジャムを)やめ
ちゃえば?』
などと言われていたそうです。バンドを続けていくことの難しさ
や尊さなどを後の世代の人たちに学んでもらえたら幸いです
解散からすごい月日が過ぎてるのに、今でもこんなに反響があるなんて.. JAMってやっぱりすごいバンドですね😁🖖
TAKUYAさんが前に言ってたように、JAMのブランドが続けることでグダグダになるようなら、あそこでスパっとバンドをやめてしまって、それでよかったんでしょうね.. 🙄🎸
ユキはあの時、なんとかバンドを続かせようとして恩ちゃんを説得したり、色々と頑張ってたんだけどねぇ~(*´・ω・`*)
特にやっぱり、社長タイプだった恩ちゃんとタクヤが一緒にいたバンドだったってことがまずかったんだよね
どうしても主導権争いになってしまうしね🙄
4人のうち、誰が欠けてもJAMの存続はあり得なかったって当時のYUKIの気持ちは痛いほどによく分かる気がしますね.. 😢
あの4人で集まった時の音のパワーは半端じゃなかったんだけどね、、ホントに残念だね。。🙄