- 公式サイト 新五稜郭タワー
- 住所 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町43-9
- 公式サイト 北海道立函館美術館
- 住所 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町37-6
函館で就職するつもりだった和山義仁が上京を決めた理由
リニューアルで建て替えをする前の旧五稜郭タワーと北海道立函館美術館の間にある広場で和山義仁さんに重要な転機が訪れ、その場所は記念として GLAY ゆかりの聖地スポットになっています。
- 郵便番号・住所 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町37
※ リンクから GLAY スポットの地図を見れます
写真とカメラが好きで絵心があったJIROさんは中学生の頃から北海道立函館美術館に親しんでいて、高校生だった頃には時間があるとよくこの美術館で色々な絵を見ていました。
因みに和山義仁さんだけじゃなくて久保琢郎さんも、生まれ育ったご実家が五稜郭公園から徒歩10分のところにあって、小学校5年生の時までこのあたりで過ごしていました。
小6からは桔梗町に引っ越していますが、TAKURO さんは
『いつも学校の遠足(ピクニック)とかで五稜郭公園へ訪れていたよ。写生してみたり、友達と追いかけっこをしてみたり、なんだかんだで五稜郭には色々と思い出が残ってるんだよね..』
と語って下さいました。
GLAYが1990年3月に上京して5ヶ月後、JIROさんがまだピエロのメンバーだった高3の頃に帰函しています。
あうん堂ホールでGLAYとピエロで対バンライブ(凱旋コンサート)をしました。
当時あった居酒屋「白木屋」での打ち上げの後に函館美術館前の広場まで移動して花火をしながら、みんなでライヴについての反省会をしていました。
ここでJIROさんはTAKUROさんとTERUさんの言葉で東京への憧れを強めて、ピエロのメンバーとして上京を決心しました。
『東京は面白くて楽しいから、JIROもおいでよ!』みたいな気軽な言葉で心を動かされた経緯がありました。
その日の夜は何気ない打ち上げだったけど、後にGLAYのJIROが誕生する為の一つの大きな岐路でした。
因みに和山義仁さんがGLAYに加入したのは、外村尚さんが参加した5年後で1992年8月のことです。
つまり北海道立函館美術館前の広場で上京を決心した1990年8月から約2年の歳月が過ぎていました。
この広場でGLAYとピエロのメンバーで打ち上げ(飲み会でもある反省会)の後に花火をしていて、TAKUROさんやTERUさんから東京へと誘われてJIROさんは遂に上京を決意しました。
JIROさんがGLAYに加入する前はTAKUROさん達の函館の高校時代の友人であるSHINGOさんがベースを弾いていました。
そしてドラムはISO(イソ)さんで、1992年頃に在籍していたメンバーで、当時はまだ高校生でした。
TERUさんは元々高校生の頃にドラムをしてましたが、この頃はもうヴォーカルだけに専念しています。
五稜郭ビルの3Fに当時(1990年8月)は居酒屋「白木屋」がありました。
白木屋はもう別のテナントの会社が入っていますので、ゆかりの聖地スポットとして見学をすることはできません。
その日の打ち上げ会場だった白木屋で、ピエロのメンバーだったツカサさんからJIROさんはTAKUROさんを紹介されて、初めて会話をしました。
セラヴィでギターをやっていた際にもJIROさんはGLAYと対バンライブを演っていましたが、和山義仁さんが久保琢郎さんと言葉を交わしたのはこの時が最初でした。
その夜『とにかくバンド活動は何があっても続けることが大切だっ!!』とかってアリガタイお話をリーダーはみんなにして下さいました。
TAKUROさんとTERUさんにHISASHIさんで上京はしてみたけど、まだ全然軌道に乗ってなくてメジャーデビューもできてなくて、生活の為の仕事に追われながらなんとか音楽活動を続けていた頃です。
明日が見えない状況でGLAYは誰もが不安を抱えていて、それで久保琢郎さんにとってご自身を鼓舞する意味もあって皆の前で出た言葉でした。
和山義仁さんはピエロのメンバーと一緒に上京をした後も、帰函した際にはたまに函館美術館へ訪れていました。
気合いを入れて上京はしてみたけど、ピエロは色々あって約1年後に解散していて、その後に別のバンドを組んで演ってみてやはり失敗を経験しました。
そしてまずサポートメンバーとしてGLAYに参加して、それから正式に加入するまでにまた色んなことがありました。
旧五稜郭タワーではリーダーのTAKUROさんが稜北高校生だった頃にアルバイトをしていました。
旧五稜郭タワーはJIROさんが訪れて記念コイン(4種類あって、機械で作れる)を作ったことがあります。