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- 郵便番号・住所 〒040-0063 北海道函館市若松町9-22
※ リンクから GLAY スポットの地図を見れます - TEL 0138-26-3100
 - 事前予約の可否 不可
 - 営業時間 5~15時
 - 定休日 無し
 - カードの使用 可(JCB、AMEX、Diners)
 - 駐車場の有無 朝市の契約駐車場が有り、2100円以上の飲食で1時間無料になります
 - 喫煙の可否 全面禁煙
 - 交通アクセス JR函館駅から徒歩で約3分です
 - 公式サイト 無し
 
  
お食事処のんちゃんはJIROさんの妹さんが働いていることで有名なお店です。妹さんは一般の方ですが、気さくにファンの方達と会話や記念撮影と握手などに応じて下さっています。
  
お食事処のんちゃんは実は2箇所あって、函館朝市ひろばの中の店舗とは別に、どんぶり横丁市場のすぐそばにあるフードコート内にも海鮮丼のお店があります。
  
フードコートの方の店舗であれば、例えば観光で訪れて手荷物が多かったり、子連れであっても気軽に利用できるメリットがあります。
  
・・・とは言っても、妹さんは基本的にお仕事中ですので、お客さんとして訪れてもご迷惑にならないように、空気を読んであげてほしいです。
  
JIROさんの妹さんなので、やはりキレイでカワイイ感じの方でした。
  
因みにJIROさんにはお姉さん1人と妹さん2人がいて、お食事処のんちゃんにいる妹さんは実はフテネコTを着ていてHISAヲタであるという事実が判明しています。
  

  
それから和山義仁さんの3歳上のお姉さんは、JIROさんがピエロのメンバーと一緒に上京するよりも先に東京へ出て就職しています。
  
つまり函館で仕事をされているわけではありません。
  
またもう1人の妹さんは看護師をされているという噂があります。
  
あと妹さんは2017年4月でご家庭の事情があって「お食事処のんちゃん」を辞めています。
  
ファンの方達が妹さんに会いに行っても、店員さんとしていらっしゃいませんので注意して下さい。
  
お食事処のんちゃんは海鮮丼やお刺身系のメニューがメインのお店です。
  

  

  

  
音楽を辞めかけてた和山義仁がGLAYに正式加入した理由
  
JIROさんが上京した後、ピエロのキーボードのイコマさんがテクノミュージックを演りたいと言い出し、そしてツカサさんは東京での生活が大変で精神的にやられちゃっててバンド活動から遠ざかっていました。
  
それで約1年後にピエロは東京で解散しています。
  
その後、和山義仁さんはピエロに入った頃に知り合ったタグチさんをヴォーカルにして、函館での知人だった人をドラムにして、音楽雑誌でギターのメンバーを募集して新しく4人でバンドを組んでいます。
  
但し、この時のバンド名は不明です。
  
このバンドで練習をしている中で音楽性やスキルとかの面で色々としっくりこなくてピエロは自然消滅しています。
  
和山義仁さんは版画の制作会社で営業をしてましたが、音楽活動の傍らで仕事にのめり込んでいくことに疑問を感じて10ヶ月程で会社を辞めて、それからは建設現場でアルバイトをしていました。
  
そんな中で和山義仁さんは新たにバンドを組むためにメンバーの募集を見て色々なバンドと会ってみて、自分探しの旅を焦りつつ、東京で続けていました。
  
そしてこの後、いよいよGLAYにサポートメンバーとして参加していくことになります。
  

  
  
和山義仁さんは、ある時ツカサさんから電話があって、GLAYが新宿ロフトという、東京ではとても有名なライブハウスでコンサートを1993年10月5日(火)に演ることを知らされました。
  
そこでグレイのメンバーがその前祝いをするとのことで、函館出身の音楽仲間がとあるお店に集まりました。
  
懐かしい顔ぶれの中で和山義仁さんはその前祝いのイベントを楽しんでいて、その時にTAKUROさんと再び会って『最近はどう?バンドはしているの?』と聞かれました。
  
『ううん。してないよ』と答えて、『じゃ今度、機会があったらスタジオに一緒に入ろうよ』と久保琢郎さんから誘われています。
  
この時、和山義仁さんはただの社交辞令だと感じて笑って受け流していましたが、それが後にGLAYのサポートメンバーとしての参加へと具体的につがなっていくことになりました。
  
因みに、JIROさんが正式に加入した時のGLAYはTAKUROさんとTERUさん、HISASHIさん、ドラムのアキラさんの5人編成でした。
  
もしこのイベントの会場でTAKUROさんに声をかけられていなかったら、もしかしたら和山義仁さんはもう音楽をやめていたかもしれません。
  
「JIRO」さんにはならずにフリーターや会社員として生涯を終えていたかもで、人との出会いの機会の価値の大きさを感じられる出来事でした。
  

  
  
  
  
  
  

  
  






















